24Mon042017

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ベトナム中部 フエ市の歴史

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フエ(Huế)は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省の省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していた阮朝の首都に定められていた。

フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある。フエの漢字名の「順化(トゥアン・ホア、Thuận Hóa)」は、14世紀に陳朝が設置した順州・化州に由来する。二つの行政区画のうち、かつてフエの町が属していた「化州」の化の漢字音(hoá)が転訛して、町はフエと呼ばれるようになったと考えられている。フランス植民地時代にトゥアン・ホアを訪れた外国人は、町を「スェウナ」「スィネア」「シネア」と呼んでいた。

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」、無形文化遺産に「フエの雅楽」が登録されている。


紀元前111年に前漢によって設置された日南郡の首府は、フエ近郊に位置すると推定されている.
2世紀末に建国された林邑(チャンパ王国)の首都はフエ付近に存在したと推定されている。林邑の時代のフエは東南アジア内陸部の物品を中国に出荷する積出港として機能していた。中国の史料に現れるチャンパの地名「烏麗」「烏里」はフエに比定され、烏里には多くのチャム人が住んでいた。制氏、潘氏といったチャム人の名家は、フエがキン族化された後も名門の地位を保ち続けた。

1307年に北ベトナムの陳朝とチャンパ王国の間に結ばれた協定によって、烏里は陳朝に割譲されて化州と改称された。1401年から1402年にかけて、胡朝は紅河デルタ地帯の住民をフエに移住させる。1407年に胡朝を滅ぼした明がベトナムを支配下に置いた後、陳朝の王族の生き残りはフエを拠点として、1413年まで明に抵抗を続けた。1558年の阮潢(グエン・ホアン)入城までにフエのキン族化はほぼ完了していた。

15世紀末までのフエは北ベトナムの政権とチャンパ王国の国境に位置する都市に過ぎなかったが[16]、16世紀から始まる南北抗争時代にフエは広南阮氏の本拠地とされ、1636年に富春(フースアン)都城が完成する。広南阮氏の時代のフエは南シナ海貿易の中心地として繁栄していた[17]西山党の乱の時代、1774年に鄭氏、1786年に西山阮氏の阮恵(阮文恵)がフエを占領した。フエを本拠地とした阮恵は北平王を称し、クアンビンからハイヴァン峠に至る地域を支配した[18]。

1801年に阮福暎(嘉隆帝、ザーロン帝)はフエを制圧し、町を阮朝の首都に定めた。ザーロン帝はヴォーバン様式に基づいた星型の城郭を持つ王城の建設を計画し、1805年にサイゴンに置かれていた太和殿がフエに移されて王宮の建設が開始される[19]。阮朝時代のフエは、中国的要素が強い北ベトナムで培われた文化に南ベトナムのチャンパ文化を取り入れて発展していく[20]。阮朝第4代嗣徳帝(トゥドゥク帝)は広南阮氏の正史『大南寔録正編』を編纂させたことで知られるが、建築事業も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

1883年にフエはフランスによって占領され、この地で二回にわたって条約が締結された。第二次フエ条約(パトノートル条約)によってベトナムがフランスの保護国とされた後も、阮朝の皇帝は第二次世界大戦末期までフエの宮殿に住み続けた。1945年8月24日に皇帝バオ・ダイは退位を宣言してフエを去り、阮朝は滅亡する(ベトナム八月革命)。

1963年、ティエンムー寺のティック・クアン・ドック、トゥーダム寺のティック・ティウ・ディウらの僧侶が民主化・伝統的仏教の弾圧を行うゴ・ディン・ジエム政権に抗議して焼身自殺を行った。1968年のテト攻勢では1月31日から2月24日にかけてフエで戦闘が展開され、町は多大な被害を被った[22]。テト包囲戦の中で、およそ2,800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士によって殺害された(フエ虐殺)。


情報元:WIKIPEDIA

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