24Mon042017

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フェ市の遺跡と歴史

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世界遺産    フエの建造物群

かつてフオン川北岸(左岸)の旧市街(京師)には阮朝の官僚と庶民が住み、南岸(右岸)の新市街にはフランス人居住区が置かれていた[1]。北の旧市街には王宮と下町、南側には官公庁、学校、病院が建てられている[28]。また、ホテルも新市街に集中して建てられている[27]。
旧市街は城壁に囲まれた碁盤の目状の方形都市であり、その南側に更に城壁と堀に囲まれた王宮がある。フエに建てられた阮朝の建造物群には、中国式の建築様式にバロック建築とベトナムの伝統的な建築が取り入れられている点に特徴がある[29]。観光客は船でフオン川を下りながら、川沿いに建つ名跡を見学するツアーを利用する事もできる[30]。
フエ旧市街を囲む城壁は、フランス帰りの建築家レー・ヴァン・ホク(Lê Văn Học、黎文学)が設計したものである。城壁内部の建築は北京の王城の形式に倣い[3][19]、北京の紫禁城を4分の3に縮小した王宮が置かれている[31]。このため、フエ王宮は中国の王宮の模倣と言われることもある[32]。王宮の東側には、国子監や六部などの官庁が置かれていた[31]。現在、王宮はフエ遺跡保存センターによって管理されている[1]。
城壁は一辺2.2km、高さ6.6m、幅21mに及び、外には濠が掘られている[19]。城壁には11の門があり[3][33]、城壁の建設にあたっては各地から瓦、木材が集められ、およそ30,000人が動員された[19]。函館市の五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。1968年のテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍が旧市街に立て籠もった時にフエは戦火に巻き込まれたが、城壁は攻撃を耐え抜いた[33]。城壁の外にはトランビンダイ、トランハイタンなどのフオン川の通行を監視するための砦が築かれ、それらの砦は川の波や嵐に耐えられるよう、丸い形をとっている[34]。内部の建物の配置には風水説が取り入れられており[1]、王宮や南の陵墓の造営にあたっては中国から招聘した風水師の意見が容れられている[35]。
王宮の南側には、見張り台として使われていたフラッグ・タワーが存在する。台座の高さは17.4m、塔の頂上までの高さは29.59mに至る[36]。フラッグ・タワーはベトナム戦争や天災の被害を受けて何度も破壊されたが、1969年に再建された[36][37]。フラッグ・タワーの左右には9門の大砲が置かれており、右側の4門の大砲は四季を、左側の5門の大砲は五行思想を表している[38]。大砲が実際に使用されることはなかったが、霊的な力によって王宮を守護する役割を果たしていたと見なされている[39]。

王宮

王宮地域は縦604m、横622m、高さ4m、厚さ1mの城壁で守られている[34]。城壁の外には濠がめぐらされ、水量は四方の水門で調節することができる[31]。王宮の建造物の上部はふんだんに使われた陶磁器やガラスの破片で装飾されており、これらの装飾には悪霊の侵入を防ぐ意図もあったと考えられている[40]。屋根瓦の固定に使われている漆喰は、建物の装飾にも使用されている。王宮の建築物に代表される阮朝建築は、2つの建物を屋根で結合して1つの建物とし、広い空間を作り出す点に特徴がある[41]。2つの建物の屋根の間には雨水を流すための溝(樋)が設けられているが、ベトナムの集中豪雨を樋だけで処理することは難しく、漏水、木材の腐食が問題になっている[41]。
午門と呼ばれる王宮の正門は、正午になると太陽が門の真上に来るように設計されている[42]。午門には複数の入口があり、中央の入口は皇帝専用の通り道になっていた[42][43]。中央の入り口は鉄の柵で閉鎖されているため、使用する事はできない[43]。午門が完成した1834年には門の上に木造2階建て、5つの望楼を有する五鳳楼が建てられ[42]、建設当初の五鳳楼には金箔が貼られていたといわれている[43]。かつて午門はシロアリによる多大な被害を受けていたが、ユネスコによる修復作業や日本からの援助によって、門の崩壊に対策が施された[44]。フエ王宮の午門も、やはり北京の紫禁城に設けられている午門をモデルにしている[17][45]。
午門を抜けると、左掖池と右掖池に挟まれた道が現れる。池の左側に設けられた空間では皇帝が騎乗する象と馬が飼われ、右側の空間には兵舎が建てられていた[4]。王宮の中央には阮朝の政治の中心となっていた太和殿が建ち、太和殿の後方には塀で囲まれた禁裏(紫禁城)が置かれている。太和殿の大きさは縦30.5m、横44m、高さ11.8mに及ぶ[42]。太和殿の屋根、柱、玉座には皇帝のシンボルである龍があしらわれている[35]。1968年に太和殿は戦渦に巻き込まれて全壊したが、1970年に再建された[43]。太和殿の大広間の中央には、皇帝が座る金箔張りの椅子と台座が置かれている。
他の王宮内部の建築物[編集]
顕臨閣(世廟) - 太和殿の西に建立されている歴代皇帝と皇后を祀った廟。顕臨閣の庭には、元朝の下でベトナムが統一されたことを表す9つの鼎が置かれている[46]。鼎には歴代皇帝の名前とベトナム各地の四季の風景が刻まれており[47]、最も大きい中央の鼎はザーロン帝に奉げられたものである[46]。フエの建造物の中でも顕臨閣は比較的保存状態が良く、1947年のフランス再上陸で被害を受けたものの、修復が行われた[48]。
長生殿(延寿宮) - 1803年にザーロン帝が母親のために建てた住居[36][49]。かつては中国式のランプなどが据え付けられていたが、戦災や盗難によって破損したため、建て替えられた[36][49]。
安定宮 - 啓定帝(カイディン帝)の離宮として使われていた建物。バオ・ダイの即位まで皇帝の住居として使用されていた。
閲是堂 - かつて皇族がニャーニャク(雅楽)を鑑賞していた劇場を復元した建物。宮廷音楽と宮廷舞踏のショーが上演されている。
右廡、左廡 - 宿直の高級官僚の控室。右廡は王宮で使用されていた生活用品の展示室、左廡は記念撮影所として使用されている。


遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓

フエの内部と郊外には、多くの遺跡が存在する[1]。旧市街の対岸に存在する虎園は直径約20mのレンガ造りの円形闘技場で、チャム人の遺跡の上に建てられている[50]。虎園は1831年に明命帝(ミンマン帝)の命によって造営され、その中ではゾウとトラの戦いが催されていた。虎園で戦うゾウは権力あるいは正義、トラは敵対者の象徴であり、トラの牙と前足の爪はあらかじめ抜かれてゾウに有利な戦いになるように仕組まれていた[50]。虎園が建てられた理由について定説はなく、儒教思想による皇帝権力の誇示、キン族による先住民支配の強調などが理由として挙げられている[50]。
町の郊外の南には南郊壇、フオン江の上流の丘陵には阮朝歴代皇帝の陵墓が建てられている。元来は皇帝の陵墓の敷地面積は明確にされていなかったが、阮朝最後の皇帝であるバオ・ダイによってそれぞれの陵墓の範囲が定められた[44]。
阮朝の第2代皇帝ミンマン帝の廟は公園とされ、市民に憩いの場として親しまれている。皇帝の存命中から建設計画が立てられていたミンマン帝の廟は、自然の地形を活用した構造になっている[51]。ミンマン帝の廟には華美な装飾が施されており[52]、中庭に並ぶゾウ、ウマ、官吏の石像は、死者の霊魂を守るために作られた。陵墓の敷地にはミンマン帝の霊廟のほかに、皇帝と皇后の位牌が納められた崇恩殿などの建物やハス池などが設けられている。雨季には敷地内の池に水が流れ込むため、水門を使って池の水量を調節している。洪水や台風の際にしばしば冠水し、外周壁、敷地内のマツが被害を受けた[51]。ミンマン帝の霊廟は小高い丘の上に建てられているが、彼の遺体は陵墓に埋葬されておらず、実際の埋葬場所は明らかになっていない。
カイディン帝の廟の意匠にはバロック様式の影響が見られ[54]、廟の内部の壁と天井は磁器やガラスで装飾されている。バロック様式だけでなく、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院、キリスト教寺院の特色が見られ、西洋と東洋の建築様式が混合した建物になっている[55]。内部には金箔が貼られたカイディン帝の銅像が置かれ、像の約9m下に皇帝の遺体が安置されている[55]。
紹治帝(ティエウチ帝)の廟は小さく、皇帝本人の希望によって塀は立てられていない[30]。
阮朝の創始者であるザーロン帝の陵墓は荒廃した状態に置かれている[32][55]。他の皇帝の廟と異なり、自然の地形が生かされた構成になっている[55]。ザーロン帝の廟は最も南に位置し、他の陵墓のおよそ5倍の面積を有する[56]。陵墓の区画は3つに分けることができ、手前の区域にはザーロン帝の事績を記した石碑、中央の区域には位牌と形見の品が置かれ、最も奥の区域にザーロン帝の遺体が埋葬されている。

カイディン帝廟



カイディン帝廟内のカイディン帝の銅像



ミンマン帝の霊廟



ミンマン帝廟


寺院・教会[編集]
多くの寺院が建つフエの町には「百の寺がある」とも言われる[57]。フエの多くの寺院の中でも、チャム人によって作られたレンガの丘の上に建つ[4]ティエンムー寺(越:Chùa Thiên Mụ/

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