22Mon052017

Back 中部観光情報 ダナン市観光 フェ市 阮朝の歴史

フェ市 阮朝の歴史

  • PDF

 

阮朝(グエンちょう、家阮)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。
西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都は順化/トゥアンホア、富春/フースアン(いずれも現在のフエ)。


阮朝の初代皇帝、嘉隆帝(阮福暎、阮暎)は、黎朝大越国(中興黎朝、後期黎朝:1532年-1789年)の時代に現在の中南部ベトナムを支配していた地方王権、広南阮氏(阮氏広南国)の出身である。 後期黎朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナムのトンキン(東京)地方を支配する鄭氏(鄭主)と、南の広南阮氏(阮主)という二大地方王権が分立し、両者は霊江(ザイン川 sông Gianh)を国境として対峙していた。この南北両国を、文語史料は「北河/南河」、中国や日本の史料は「東京国(交趾国)/広南国」と呼ぶ。また、欧文史料はトンキンやコーチシナと呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独自の国号や帝号、年号を持つことはなかった。
1771年、西山(現在のビンディン省タイソン県)で阮文岳・阮文侶・阮文恵の三兄弟に率いられた西山党の乱が勃発した。 広南阮氏が鎮圧に手間取る中、トンキンの鄭氏はこれを好機と見て大挙して南下し、1774年に首都富春(フースアン Phú Xuân、今のフエ市キンタイン地域)が陥落し、当主阮福淳(睿宗)は南部に脱出した。阮氏三兄弟(西山(タイソン)阮氏)は表向き上は鄭氏に従い、広南阮氏残党の討伐を行った。1777年には南部の嘉定(ザーディン Gia Định、現ホーチミン市)が陥落し、逃げ落ちた阮福暎を除くほとんどの王族が殺害されて広南阮氏は滅亡した。

建国

広南阮氏の滅亡により、黎朝下の南北両国は名目上は鄭氏の権勢の下に統一されたが(「皇黎一統」)、実際には広南阮氏の旧領は西山阮氏三兄弟が占有しており、南北対立の構図は変わらなかった。1787年、西山阮氏末弟の阮文恵が鄭氏を倒すと帰仁(クイニョン)の阮文岳は皇帝を名乗り新王朝の西山朝(対内的国号は大越、対外的国号は安南のまま)を樹立したが、清朝の救援を得た黎朝帝室復興勢力を滅ぼす戦いの中で、長兄と対立しつつあった阮文恵もまた富春(現在のフエ)で皇帝を名乗った。結局、西山朝の南北両朝廷(帰仁朝廷・富春朝廷)もまた対峙・抗争に突入した。
1777年以後、シャムに亡命していた広南阮氏の生き残り阮福暎は、シャム王やフランス人宣教師などの支援を受け、粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。1802年に首都を中部北方の富春に定め、広南阮氏を再興(ただし、1802年以後は越南阮朝と称する)、年号を嘉隆と改めた(この年号は南の嘉定の「嘉」と北の昇隆の「隆」を統合した象徴とされる)。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」(南に越の国がある。この国は大きくて、南の天下を支配している)号を求めたが、嘉慶帝は「越南」(中国のはるか南方の僻地に越がある。さらにその南方にある国である)という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
阮朝は中国に朝貢を行って形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し、独自の年号を使用し、「承天興運」を国是として、ベトナムに小中華帝国を築き上げた。国号・国是と年号は国内の公文書の冒頭に必ず記載された。

初期の政治体制と政情

阮朝は現在のベトナムにほぼ等しい領域を支配した最初の統一政権だった。それ故に当初は性急な集権化を行なわず、現在のハノイを中心とした北部には北城総鎮を、嘉定を中心とした南部(仏領期のコーチシナに相当する地域)に嘉定城総鎮を置いて大幅な自治権を認めた。
1815年、嘉隆律例が発布され、中国的な制度が導入される。第2代の明命帝(在位:1820-1841)の時代、特に1830年代に入ると清の制度に倣った中央集権化が推進され、科挙制度や省区分の地方制度が整備された。このような集権化政策は、北部・南部双方で反発を招き、北部では黎朝の子孫を称する黎維良の乱、南部では嘉定城総鎮黎文悦(ベトナム語版、中国語版、英語版)の息子黎文カイ(ベトナム語版、英語版)による黎文カイの乱(ベトナム語版、英語版)など、大規模な反乱をもたらすことに繋がった。また対外的には建国の際に後ろ盾となったシャムとの関係が悪化し、カンボジアやラオスをめぐって泥沼の戦争状態となった。内部の反乱は鎮定できたものの、カンボジア・ラオスの情勢は基本的にシャム側有利に推移し、版図は最大に達したものの国は大いに疲弊し、その痛手から回復できないままフランスの侵略を受けることとなる。

ヨーロッパ諸国との関係では、建国の経緯もあってフランス人をはじめとする欧米人やキリスト教を敵視することは少なく、嘉定城総鎮の黎文悦もキリスト教徒であった。中国的な支配体制が整備され、儒教のウェイトが高まるにつれて排外的な傾向があらわれるようになり、明命帝はキリスト教を禁止し、排外政策に転じた。また、黎文カイの乱で多くのキリスト教徒が反乱側に味方したことも、キリスト教への迫害を強める要因となった。

産業革命を経験したヨーロッパでは通商貿易の拡大を求めアジア市場に進出、17世紀初めにはベトナムに通商を求める使者が訪問している。阮朝成立直後の1804年、イギリス使節ロバーツが通商関係の改善を求めてダナンに来航している。そして1832年にはアメリカからの使節も来航しているが、これを拒絶している。阮朝建国の際にフランス人のアドラン司教、ピニョーらの支援を受けていたため、フランス人を優遇し、当初はキリスト教を保護していた。1799年のピニョーの死後、フランス革命やナポレオン戦争の影響で、しばらくベトナムとの交渉がなかった。ナポレオン戦争終了後、フランスは通商関係を求めてベトナムに使者を派遣している。嘉隆帝は建国の功績を認めフランス人を優遇していたが、通商要求に対しては一貫して拒否していた。1815年の嘉隆律例発布以来、儒教的な統治を理想とするようになった阮朝は、祖先崇拝を否定するキリスト教に違和感を有するようになった。

1820年に明命帝が即位するとキリスト教に対する弾圧が実施され、越仏関係を悪化させた。さらに、明命帝の時代になると一転してフランス人も冷遇するようになり、次第にフランス人に対する優遇措置も認められなくなった。1824年には建国の際の功績者であるフランス人ジャン=バプティスト・ショニー(フランス語版、中国語版、英語版)(阮文勝)が帰国を命じられた。1826年には開国を求めるフランス軍艦の艦長との引見を拒否、1826年にはショニー(フランス語版、中国語版、英語版)の甥ユージン・ショニー(Eugène Chaigneau)が領事資格で訪越したがこれも拒否し、ベトナムとフランスの公的関係は一時中断している。黎文カイの乱(ベトナム語版、英語版)(1833年 - 1835年)にキリスト教徒が多数参加したことなどがあり、キリスト教迫害が激しくなり、1836年にはPierre Dumoulin-Borieらヨーロッパ人宣教師 7名が逮捕され、1838年に死刑となった。数百の教会が破壊、弾圧を恐れた数万の民衆が山野に逃れている。その後、アヘン戦争によるヨーロッパ諸国の軍事力に脅威した阮朝は、キリスト教への迫害を緩和した。

1834年には第一次泰越戦争の結果、カンボジアのトンレサップ湖以南の地域を支配下に置き史上最大の版図を記録した。
1841年に即位した紹治帝の時代になると、投獄されていた宣教師をフランス軍艦に引き渡している。しかし、頑なな鎖国政策に変更はなく、1847年に来航したフランス軍艦が国書の伝達を請求したが、阮朝はこれを拒否。さらに海上防備を固め、ついにはフランス軍艦の砲撃が開始され、ダナン港で阮朝艦船5隻を撃沈する武力衝突に発展した(ダナンの戦い(英語版))。この武力衝突は阮朝の態度を硬化させた。
1847年に即位した嗣徳帝はキリスト教弾圧を強化、1851年から1857年にかけてフランス、スペイン人宣教師を斬首刑に処した。ナポレオン3世は1857年にシャルル・ド・モンチニー(フランス語版、英語版)を派遣し、事態の善後策を協議するものの交渉は失敗。外交交渉での解決を断念したフランスは、スペインと連合してベトナムへの武力侵攻を決意した。

フランスとの抗争・フランス領インドシナの成立



1858年8月、シャルル・リゴー・ド・ジェヌイ(フランス語版、英語版)提督率いる仏西連合軍がダナンに侵攻、9月1日に占拠している(コーチシナ戦争(英語版)、1858年-1862年)。その後、サイゴン川を遡行し嘉定城を攻略、1859年2月にはサイゴン(現在のホーチミン市第一区、第二区)を占拠、根拠地をダナンから移している。これに対し阮朝軍も反撃を加えたが、フランス軍は1861年にはミト、ジャディンを、1862年にはビエンホア(辺和)、バリア(把地)に続いてビンロン(永隆)を占領している。当時、トンキン地方で発生した飢饉とそれに続く反乱などもあり、南方のサイゴンより穀倉庫としてのトンキン地方の確保を優先した阮朝は、フランス軍との講和交渉を行い、潘清簡と林維浹をサイゴンに派遣し、1862年6月に壬戌条約(第1次サイゴン条約)を締結した。この条約により阮朝は国内のキリスト教布教の自由を認め、コーシャンシーヌ(南圻)東部三省(辺和、嘉定、定祥(現在のティエンザン省周辺))及び崑崙島をフランスに割譲するとともに、10年年賦で2千万フランの戦費賠償金を支払うことが定められた。
南圻東部三省を入手したフランスはメコン河を遡上し中国南西部へ至る水路の調査を着手した。しかしメコン河中流域はカンボジアを通過しており、その地域での主導権掌握を企図したフランスは、カンボジア国内の内訌を利用して1864年にカンボジアを保護国とすることに成功する。しかしカンボジア国内ではシャムの支援を受けた反乱が続いており、この反対勢力を排除するために南圻西部三省の割譲を阮朝に迫った。嗣徳帝はこの割譲要求を拒否、するとフランス軍は1867年に西部三省への軍事侵攻を開始、南圻全省をその支配下に収めた。
南圻の植民地化に成功したフランスは、メコン河を利用した中国への通商ルート開発を推進した。詳細な調査が行われた結果、メコン河中流は現在のラオス - カンボジア国境地帯を中心に急流および岩礁が存在し、通商路として利用することは困難であった。このため、代替案として、トンキンから紅河を遡上して雲南へ至る通商路に注目した。

この時期の阮朝では反乱が頻発し、また、太平天国の系統を引く呉鯤の軍団が侵入するなど、弱体化が進んでいた。1873年4月、たまたま一介のフランス商人であるデュピュイによる外交問題が発生。原因は紅河航行に関することであったが、コーチシナ総督デュプレー(フランス語版)は11月、事件調査を名目に海軍大尉フランシス・ガルニエをハノイに派遣した。しかし、フランス人の紅河交通を要求するフランス側と、それを拒否する阮朝側の交渉は決裂、フランス側は武力行使に及び、1873年にハノイを占拠した。しかし12月にはハノイ奪還を目指す黒旗軍が反撃し、フランス軍を撃退している。
当時のフランスは普仏戦争の敗戦処理に忙殺されており、ベトナムでの拡張政策に反対の姿勢を示しデュプレ提督にトンキン攻略中止の訓令を発令した。そして戦後処理の講和会議が開かれ、1874年3月に第2次サイゴン条約(ベトナム語版)(甲戌条約)が締結された。この条約によりフランスはベトナムの主権を確認すると同時に武器の供与や技術者の派遣を約束、また阮朝は南圻六省のフランス主権を承認し、施耐及び寧海(現在のハイフォン)を開港することが定められ、懸案であった紅河の通行権をフランスに対し認めている。

1882年末、紅河を遡行していたフランス人がラオカイ(老街)で黒旗軍に阻止される事件が発生した。コーチシナ提督ル・ミル・ド・ビレル(フランス語版、英語版)は甲戌条約違反を問責するためアンリ・リビエール(英語版)海軍大佐をハノイに派遣した。ハノイに到着したリビエールは外交交渉を無益と判断し直ちに軍事行動に着手、ハノイを占拠した。嗣徳帝の救援要請を受けた清朝はトンキン地方に出兵(清仏戦争)、黒旗軍もソンタイ(山西)を拠点としてフランス軍と対峙した。結果としては黒旗軍がフランス軍を撃破、リビエールも戦死している。この敗戦を受けたフランス政府はベトナム征伐の軍を派遣することを決定し、阮朝とフランスの間での緊張が一気に高まった。フランスは阮朝都城であるフエ(順化)攻略を決定、1883年にフエの外港であるフアン(順安)を攻略(トンキン戦争(英語版)、1883年6月 - 1886年4月)、そのままフエへの進撃を開始する。
対外的危機を迎えた阮朝であるが、1883年7月に嗣徳帝が崩御する。これに伴いあまり素行の良くない育徳帝が即位したが、実の母である慈裕太后(ベトナム語版、中国語版)の命で、阮朝の実権を掌握していた阮文祥(ベトナム語版、英語版)と尊室説(ベトナム語版、英語版)により僅か2日で廃立され、1883年7月23日に代わって協和帝が擁立された。これ以後、"Tam Cung"("three harems")と呼ばれる慈裕太后(ベトナム語版、中国語版)、儷天英皇后(ベトナム語版)、学妃(中国語版、英語版)の三人の皇族女性と阮文祥(ベトナム語版、英語版)と尊室説(ベトナム語版、英語版)による皇帝の廃立がつづく。

阮朝は抵抗することができずに講和を要請し、1883年8月25日に癸未条約(英語版)(第一次フエ条約、アルマン条約)が締結された。この条約で阮朝はフランスの保護国となり、アンナン(中圻)は従来どおり阮朝による統治を認めるが、トンキン(北圻)にはフランス理事官を設置することとなった。協和帝は阮文祥・尊室説の両名を排除してフランスに接近しようとしたが、慈裕太后(ベトナム語版、中国語版)の命で逆に両者により捕縛され、8月18日に反対した陳践誠(ベトナム語版、中国語版)も殺害された。11月29日に協和帝は廃位され毒殺され、建福帝が擁立された。1884年6月6日には甲申条約(英語版)(第二次フエ条約、パルノートル条約)が締結され、ここに至り阮朝はフランスの支配下に入ることとなった。
建福帝は、性淫を好む性格から阮文祥(ベトナム語版、英語版)と養母学妃(中国語版、英語版)とが密通していることに気付き、彼らを処罰しようとしたが、1884年7月31日に即位後僅か半年で学妃に毒殺された。嗣徳帝崩御1年足らずで4人もの皇帝が即位する異常事態に阮朝内部での混乱が続くこととなり、1884年に建福帝の弟である咸宜帝が即位した。フランスが清仏戦争に勝利し、1885年6月に天津条約を締結。清がフランスの阮朝領土(越南国)保護領化を承認し、ここに清が阮朝に対する宗主権を喪失している。7月(旧暦5月23日)、フランスの高圧的な態度に反発した尊室説は対仏クーデター(en:Cần Vương movement)を起こし、フエのフランス駐屯軍及び在留フランス人を襲撃してフランス勢力の一掃を企てた。フランス軍は直ちに反撃を開始し宮城を占拠(「失守京都」)した。尊室説は咸宜帝を擁して北方の広平省に逃れ、フランス勢力に対抗すべく檄文をベトナム各地に発した。フランスは咸宜帝のフエ帰還と尊室説の逮捕につとめたが、山間部で対抗する両者を捕捉することができず、9月にはフランスは咸宜帝の退位を宣言、同慶帝を擁立した。
その後もフランスに対する反乱は続いたが、近代的なフランス軍の前に敗北していく。咸宜帝も広平奥地で抵抗を続けたが、1888年11月にフランス軍に逮捕されアルジェリアに流刑となり、尊室説は清朝へ亡命している。潘廷逢(ファン・ディン・フン)(ベトナム語版、英語版)や黄花探(ホアン・ホア・タム)による抵抗が僅かに続いたが、それらも19世紀末にはほぼ鎮圧され、フランスによるベトナム統治時代を迎えることとなった。

阮朝の終焉


フランスによるベトナム統治が開始された後も、阮朝は司法行政権のほかに典礼、恩赦、勲章授与など、名目的な権限のみを与えられていた。こうした状況の中、それまでの武力闘争による阮朝再興から、ヨーロッパの先進的な文物、思想を学び近代化を図る必要性が唱えられ、日本留学によるベトナム近代化を図るファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)らの東遊運動に発展した。これらの運動は次第に急進的な民族運動へと発展していき、フランス当局の圧力を受けるようになった。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、停滞していた阮朝内部にも大きな影響を与えた。大戦の影響によりフランス軍の防衛力が低下したことから維新帝を擁しての反仏革命が計画されたが、計画は事前に露見し維新帝はレユニオン島に流刑とされ、代わって啓定帝が即位した。
1925年に啓定帝の崩御により保大帝が即位したが、その即位の際に皇帝の司法行政権がフランスへ帰属することとなった。即位した保大帝はフランスに留学、1932年に帰国し立憲的な政治改革を目指したが保守派の抵抗により断念している。
日中戦争が激化すると、日本軍はベトナムから蒋介石率いる国民政府への輸送ルート(いわゆる援蒋ルート)を遮断すべく、北部仏印に進駐する。保大帝はフランスと敵対する日本軍に協力している。1945年3月11日には、ベトナムにおけるフランスとの共同統治体制を転覆させるべく反仏クーデターを発動、保大帝はベトナム帝国としてベトナムのフランスからの独立を宣言した。しかし、まもなく訪れる日本の敗戦により、ベトナム八月革命と呼ばれる革命が起こり、8月30日にはフエの宮殿で退位式典を行い保大帝は退位、ここに143年に及ぶ阮朝は滅亡することとなる。

情報元:WIKIPEDIA

コメント記入


Security code
更新